織田信長の時代
概要
戦国時代の門前町や、一乗寺周辺の交通・軍事上の役割を紹介します。
1. 宿場と市場が賑わう「一乗寺の門前町」
信長公の時代に先立ち、かつての一乗寺周辺は、交通と経済の一大拠点として栄えた街が存在していました。
鎌倉街道と「籠屋」の宿場町
一乗寺の参道そのものが「鎌倉街道」の一部であり、この主要街道が一乗寺へと直結していました。参道の東の先、現在の小熊小学校周辺にあたる字名「籠屋(かごや)」周辺には「鎌倉古道町屋立ち並び宿場にて候い増る」「旅籠拾数十軒あり」と記されるように、数多くの旅籠が立ち並ぶ宿場町が形成されていました。(以下参照:『武功夜話拾遺』巻二)
川湊・渡しの経営と伊勢交易
寺院の西側には長良川を渡る「渡し」と「川湊(かわみなと)」が存在し、往時の寺院がこの渡しを運営管理していました。ここを通じて桑名など伊勢方面との水運・物資の流通が盛んに行われていました。(以下参照:『武功夜話拾遺』巻二、巻五)
荘園地と手工業・鋳物職人の街
寺院の周囲には広い荘園地や田畑が広がり、人々の生活を支える街が形成されていました(※ここに生活品の写真を掲載)。その街には、金属加工、主に鍋や釜などをつくる「鋳物(いもの)職人」たちが多く暮らし、手工業の生産拠点としても活気に満ちていました。(以下参照:『武功夜話拾遺』巻二)
以下は、参考文献となる「武功夜話拾遺」の記述です。
武功夜話拾遺 巻二
州の俣の事、尾張川舟渡し賃永楽銭六文の事
一、州の俣、この地尾張川大きく流れ込み、数個の岡州を作り大河数条競いて押し流れ、川幅広くにわたり陸地なるや川なるや定め難し。古来より美濃・尾張へ通ずる鎌倉街道舟橋にて渡り増る要所、旅人繁く行きかよい増る。然れど大雨来たりてば水量増し立ち所に舟橋を流失、これを元に復するに数十日を要す。数年来は美濃・尾張取合い出入りの明け暮れなれば、舟橋かけるに余念なく出入り日々打ち続き増れば、旅人水枯るるを待って浅瀬を選び渡り行く処、道あって道無く三々五々連れ立って川渡り行く様また哀れなりと、水深き処は二ヶ所これは川並衆川舟を仕立て永楽銭六文の賃代をかせぎ増る、冥土三途の川もかく有るやと物語り候。
一、州の俣辺り森部、軽身と田開け増る処、河原また広く是れに迫るは深田、此の辺り畔柳丈を為して生い茂り久保見水をためて深くなり有れければ、水鳥群れ遊び鴫鳴き渡る沢は水をためて萱草茫々とたり。
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永禄申歳(三年)より酉歳(四年)美濃州の俣、軽身取合いの事
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一、州の俣は尾張界内に候も誠に油断なき処なれば、鎌倉古道町屋立ち並び宿場にて候い増る。然れど大河の向岸までは皆敵地にて、古川、新川分ち難く旅籠拾数十軒あり。河原沿いに小屋掛け物売り渡世の人もあり、どこら辺りまで河なるや陸なるや定かならず。大雨来たりなば一夜にして川流れ改まり節所にて候。渡り行けば先定め難く水鳥群れ遊び軍兵動けば立ち所にしてこれを伝え、敵身方、細作、飛、乱れ入り来たる、見張りを相立て川石を選び来たり土を盛り塁を築き候、三拾有余日長陣と相成り増る。
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【 現代語訳 】
武功夜話拾遺 巻二
州の俣の事、尾張川舟渡し賃永楽銭六文の事
一、州の俣は、尾張川(境川)が大きく流れ込み、数々の州を作り、大河が幾筋も競うように流れており、川幅が広くてどこが陸地でどこが川かも定めがたい場所です。古来より美濃と尾張を結ぶ鎌倉街道の舟橋が渡される要所で、旅人が頻繁に行き交う場所でした。
しかし、大雨が降ると水量が増して立ちどころに舟橋が流失し、元通り復旧するのに数十日を要しました。ここ数年は美濃と尾張の合戦が連日続いていたため、舟橋を架ける余裕もなく、旅人は水が干上がるのを待って浅瀬を選んで渡っておりました。道があって道もない中、三々五々連れ立って川を渡っていく様子は哀れなものでした。
水が深い場所が二箇所あり、ここは川並衆が川舟を仕立てて永楽銭六文の船賃を稼いでおり、「冥土の三途の川もこのようであろうか」と語り合われておりました。
一、州の俣のあたりは森部や軽身といった開墾された田畑が広がる場所ですが、河原もまた広く、これに迫る深田(湿田)が広がっていました。このあたりは畔の柳が丈高く生い茂り、窪地に水が溜まって深くなっており、水鳥が群れて遊び、シギが鳴き渡る湿地には水が溜まって萱草(カンゾウ)が茫々と生い茂っておりました。
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永禄申歳(三年)より酉歳(四年)美濃州の俣、軽身取合いの事
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一、州の俣は尾張の境(さかい)内にありますが誠に油断のならない場所で、鎌倉古道の町屋が立ち並ぶ宿場町でありました。しかし大河の対岸はすべて敵地で、古川・新川の区別もつきにくく、十数軒の旅籠がありました。河原沿いに小屋を掛け、商いをする人々もおり、どこまでが川でどこからが陸地かも定かではありませんでした。
大雨が降れば一晩で川の流れが変わり、大変な難所となりました。渡ろうにも先が見通せず、水鳥が群れ遊び、軍兵が動けば立ちどころにそれが敵に伝わり、敵味方の忍び(細作)や乱波が入り乱れておりました。見張りを立て、川石を選んで土を盛り砦を築き、30余日の長陣となりました。
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当時、「州の俣」と呼ばれた所は現在の境川が合流した長良川流域であること。長良川を挟んだ流域が「州の俣」と呼ばれていたこと。中心的な場所は尾張国側にあり、鎌倉街道があったこと。旅籠などの町家が並び、人々が盛んに往来し活気があったことが分かります。
また、川並衆が川舟を仕立てて船賃を稼ぐなど、織田信長公の時代には寺院の力が及ばない状況であったことが分かります。
先祖武功夜話拾遺 巻五
織田信長公勢州責めの途中より州俣に引返しの事
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永禄卯年(十年)八月九日、美濃斎藤方三千有余の軍兵をもって三千の軍二手と相成り州俣へ押し寄せ来たり候。州俣相守り候ところの藤吉郎殿、蜂須賀衆、前将衆、川筋衆、火水と相成り防ぎ戦い候。これは上総介様勢州発行を窺い知り、安藤伊賀守(守就)なる者逆心美濃の兵に通じ寄り州俣一気に取り入れんと欲し候も、州俣は堅塁なれば是の取出を抜くことあたわず攻めあぐみ候ところ、桑名より引き払いの織田の五千の大軍、佐久間、柴田の諸将先鋒と相成り上総介様今こそ美濃平呑の勢いをもって、稲葉の城に陣を構え各々部署を相定められ候。然る程に美濃方勢州桑名御出張の留守を付け込み候ところ、陸続と尾張勢押し出し来たり、織田上総殿の御旗を見て州俣取り囲み候ところの美濃勢、井口を指して退き行き候。
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【 現代語訳 】
先祖武功夜話拾遺 巻五
織田信長公勢州責めの途中より州俣に引返しの事
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永禄十年(丁卯・1567年)八月九日、美濃・斎藤方の3000余りの兵が二手に分かれ、州俣へ押し寄せてまいりました。
州俣を守っていた藤吉郎(秀吉)殿、蜂須賀衆、前野将右衛門(長康)衆、川筋衆(川並衆)らは、火水となって必死に防ぎ戦いました。
これは、上総介(信長)様が伊勢へ出陣した隙を窺い知った安藤伊賀守(守就)という者が裏切り(斎藤方に寝返り)、美濃の兵と通じて州俣を一気に攻め落とそう(取り入れんと)としたものでした。しかし、州俣は堅固な砦(堅塁)であったため、この砦を落とすことができず攻めあぐねておりました。
そこへ、桑名から引き返してきた織田の5000の大軍が到着しました。佐久間(信盛)、柴田(勝家)の諸将が先鋒となり、上総介様はいまや美濃を一気に呑み込むような勢いをもって、稲葉山城に陣を構え、各々の部署をお定めになりました。
美濃方は織田軍が伊勢・桑名に出張した留守を突いたつもりでしたが、尾張勢が次々と押し出し、織田上総殿の御旗を見たため、州俣を取り囲んでいた美濃勢は井口(岐阜)を目指して退散していきました」とのことである。
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上記の記述から、現在の桑名を経由した船による大量の物資を運ぶことができる流通路が存在していたことが分かります。養老山脈に沿って進行するルートもありましたが、このときは未だ敵地でした。
2. 寺院統治の不全と自立する「境目の地」
しかし、その後の戦乱や度重なる河川の氾濫により、往時の一乗寺は文献から寺院としての荘園や町、渡しの管理が機能していなかったことが分かります。
無主・不入の難所「河内(かわうち)」
(参照:『武功夜話』巻二 110, 111ページ、巻三 220ページ)この地域(小熊・州の俣周辺)は「七つの流れ」が複雑に入り組む厳しい難所(河内)でした。大雨のたびに川の流れが変わり、尾張と美濃の国境すら定かではない境目の地であったため、かつての寺院主導による領域管理や通行統制、渡しの維持管理は有名無実化し、「永楽銭六文」の船賃を稼ぐ自律的な地域社会となっていました。
川並衆の台頭と織田軍の後方基地化
(参照:『武功夜話』巻二 110ページ、巻三 219〜228ページ)そうした自立的な境目の地で実権を握っていたのが、蜂須賀小六や前野長康ら「川並衆」でした。そして永禄9年(1566年)、織田信長公・木下藤吉郎(秀吉)公による「墨俣(州の俣)一夜城」の建設に際し、寺院の旧領や境内地であった一乗寺周辺(小松原・天王森)は、織田軍の壮大な後方軍事拠点へと劇的な変貌を遂げることになります。
3. 築城資材・道具が集結した「小松原」
(一乗寺参道北側)(参照:『武功夜話拾遺』巻三 219, 223, 225ページ、巻四)墨俣の要塞建設地からわずか百メートルほど手前に位置する「小松原」は、要塞化作戦を支える大規模な補給集積所となりました。
軍需資材の集積
犬山八曽山などから伐り出された大量の建築木材をはじめ、鉄砲、大掛矢(木づち)、鍬、鋤、麻縄や藤づるなど、突貫工事に必要なあらゆる用具があらかじめ小松原に蓄えられました(「留め場は小松原とする」)。
厩(うまや)と馬の管理
小松原には四十頭あまりの軍馬を繋ぐ「厩」が設けられ、小坂雄善(当時15歳・初陣)ら20名の警備役(定番)が常駐して管理に当たりました。
突貫作業の拠点
千人を超える兵や職人、川並衆が押し寄せ、雨の降る暗闇の中で松明を控えつつ、夜を徹して築城現場へ出撃していった緊迫感あふれる前線基地でした。
4. 地元・小熊郷の協力と「天王森」の本陣
(参照:『武功夜話拾遺』巻三 223, 224ページ、巻四 231, 234ページ)尾張から川を渡った織田軍(前野長康ら約360人や蜂須賀小六の手勢)が最初に着陣したのが、小熊郷の「天王森」でした。
地元の参陣と手伝い
地元の武士・野々村三左衛門が手勢50余人を引き連れて参陣したほか、小熊の村人たちも総出で手伝いを申し出たと伝えられています。
炊き出しと資材運搬
庄屋(西川重之右衛門宅)の庭先には大きな土竈(どがま)が作られ、村の女性たちが兵糧の炊き出しに奔走しました。さらに、屋根葺き用の茅(かや)や筵(むしろ)、米俵などを村中で調達しては船で墨俣の対岸へ運び入れるなど、かつての寺院組織に代わって地域住民と織田軍が一体となった協働作業が繰り広げられました。
5. 美濃平定の要「州の俣」の軍事的意義
(参照:『武功夜話拾遺』巻二 91ページ、巻四)信長公・秀吉公にとって、東の「加納」と西の「州の俣」は、美濃・稲葉山城(岐阜城)を挟み込む「両手足」にあたる絶好の要衝でした。
古くは「永楽銭六文」の渡し船が行き交う境目の地であった一乗寺周辺の歴史的・地理的条件と川並衆のネットワークを活用し、この「州の俣」に不意を突いて砦を築き上げたことこそが、その後の美濃平定(岐阜城攻略)と天下布武への決定打となったのです。
6. 岐阜城下町への変貌と小熊の記憶
美濃平定を果たした信長公は、次なる城下町形成のために大胆な政策を断行しました。かつて墨俣築城と兵糧供給を支えたここ小熊の住人たちは、金華山の麓(現在の岐阜市街中心部)へと移住を命じられたのです。移住の際、住人たちが長年深く信仰してきた地蔵尊もともに遷座(移動)されました。現在も岐阜市に存在する「小熊町」という地名は、当時の羽島小熊の住人たちがこの地へと移り住んだ歴史的な名残にほかなりません。住人を集約・配置したこの信長の施策によって、岐阜城の麓は新たな経済・政治の中心地として大いに栄えることとなりました。一乗寺・小熊の地で培われた技術や人々の営みは、形を変えて岐阜の城下町発展の大きな礎となったのです。