源頼朝の時代
源頼朝公は、源義朝公と熱田神宮の大宮司藤原季範の娘由良御前の子として生まれました。元服するまでは母親の元で育てられるという当時の慣習通りならば、頼朝公の幼少期は熱田神宮に住んでいたと考えられます。
頼朝公は元服後も熱田神宮と京の都を行き来していました。その際に、主要道の要所として使われていた一乗寺に立ち寄ったことは想像に難しくはありません。
源頼朝公と当時の一乗寺が密接に関わっていたことが、一乗寺に残る「合戦図」や「縁起」からみることができます。
源頼朝公が上洛への出発の様子です。「吾妻鏡」には以下のように記されています。
屋敷に家臣らが集まっています。源頼朝公が縁より上機嫌で黒馬に乗り込む様子が描かれています。見送るのは大姫でしょうか。誰か寝込んでいます。 出発の様子が詳しく描かれた絵が残ることから、当時の一乗寺が源頼朝と密接に関わっていたことを知ることができます。「吾妻鏡」に一乗寺に立ち寄ったことが記録されています。
戦国時代まで重要な人物は寺院にて宿泊しました。当初、「小熊」は寺院の集まっている場所を指していました。 上洛の行き帰りに休息したことが分かります。帰り道は一宮の黒田からわざわざ引き返して休息に来ているほど密接な関係があったことが分かります。 一乗寺「縁起」には以下のように記されています。
一乗寺は縁起で2度も被災しますが、そのことは治承・寿永の乱(源平合戦のキッカケ)における洲又川の戦いと、その後の源平合戦の期間中の小競り合いであったようです。
合戦の前に一乗寺が焼かれたことが描かれています。絵から一乗寺が大寺院であったこと、大きな街があったことが分かります。
一乗寺の地蔵尊を持って避難する様子が描かれています。一乗寺の中心となった地蔵尊です。この時の地蔵尊は坐像であったことがよく分かります。 この地蔵尊は、織田信長公によって金華山の麓の「慈恩寺(〒500-8054 岐阜県岐阜市大門町)」に安置されています。
左上に描かれているのは源行家公です。休憩中に急襲にあったことが詳細に描かれています。右下に描かれているのは平重衡公です。平重衡公は美男子で有名でしたが醜くい顔で描かれています。
南都焼討で東大寺や興福寺を焼いたために、東大寺や興福寺の関係寺院であった一乗寺に残された絵には醜く描かれたのでしょう。
この絵には、武器は刀、薙刀、弓。逆茂木の門、板塀の盾。男子は烏帽子をかぶるという習慣など、源平合戦の特徴がよく描かれています。
このことは「吾妻鏡」にみることができます。
「平家物語」には以下のように書かれています。
平家物語は脚色が強いのですが、源行家公が戦いの前に一乗寺周辺を封鎖したことが分かります。
絵と「吾妻鏡」から、行家公が明日攻めるとして休憩中に目の前に平家の軍がいた。準備もままならずに戦いが始まって行家公は敗退。討たれながら矢作川(愛知県)まで逃げたようです。
「平家物語」のように夜半に攻めたのではないようです。
源頼朝公上洛に際して街道を整備
源義経公が次々と平家を追い立てて行くことは有名ですが、義経公の様子を頼朝公に随時知らせた梶原 景時という人物がいます。
梶原 景時公は義経公が西に遠征している間、何度か鎌倉とを往復します。その行程で一乗寺を経由して休憩などをしていったのでしょう。一度目の修復はこの時かと思われます。
そして、源平合戦が終結するまでの間に小競り合いがありました。この話は源平カエル合戦として一乗寺周辺の伝承として残っています。
源平合戦が終り、暫くしてから頼朝公が上洛します。そのときに、その行程が修復、整備されます。そのことを任されたのが梶原 景時公でした。景時公は美濃守に任官され、鎌倉から京都までの行程を整備しました。
一乗寺の参道の脇にある土塁は上辺約2m、高さ約2m、下辺約4mで鎌倉街道の規格そのものです。戦国時代の終わりに修復し直したとありますので、古代道路を源頼朝公が上洛する際にも整備し直したとみています。
源頼朝公が上洛する際には一乗寺は再建され、行き帰りに休憩していきました。それからは、源氏の上洛時に休憩するようになりました。
余談
洲又川の戦いに源義円公がいました。一乗寺に残る「合戦図」にはその後のことが描かれています。
源義円公は洲又川の戦いにて戦死します。
この絵から、源義円公の妻は見つかったときには野垂れ死にしていたこと、娘がいたことも分かります。
その息子は尾張国愛智郡(現在の愛知県愛知郡)の郡司に引き取られ、愛智氏の祖となりました。