古代の一乗寺について

 古代日本の土地開発において、ひとつの基点となった場所です。そこに洲又の渡しと川湊が設けられ、多くの産鉄民が住んでいました。その基点は地元と行き交う人々の信仰の場所でもありました。
 一乗寺の参道が示す東西方向は白鳥が飛来する最南端を指しています。この白鳥の飛来は鉄を伝えた民族の伝説に由来します。鉄を伝えた人々は白鳥を追いかけて東へと向かって来たのです。初期の鉄は隕鉄という鉄の隕石を利用していました。隕鉄の落ちてくる場所と白鳥の飛来地は同じような場所が多く、鉄を伝えた人々は白鳥が隕鉄を運んだと考えていました。ヤマトタケルノミコトの白鳥伝説の由来かもしれません。
 鉄を伝えた人々は産鉄民とも呼ばれ、農耕も伝えたといわれています。

太陽信仰と一乗寺

 一乗寺の土地の形状を見ますと、地蔵堂と参道が真東を向いており、本堂が冬至の方向に寄っています。

 暦に詳しい方なら分かると思いますが、真東が分かる施設があると春分、秋分(お彼岸のころ)を測ることができます。さらに冬至の方向が分かると1年の終わりと始まりである太陽の再生の日が分かるのです。それによって太陰暦を修正していたのです。


 さらに詳しく調べてみますと、近くに字名が「辰星」という場所があります。古代中国の「時を告げる星」という意味で「大犬座のシリウスまたはさそり座のα星アンタレス」です。この字名のある場所は一乗寺から29°の方向にあります。29°は冬至の太陽が昇ってくる方向です。

 冬至は近年まで太陽信仰として残っていました。1年の終わりと始まりの象徴で、年老いた太陽が翌日には赤ん坊になって生まれ変わるという祭です。人々もまたこの日を境に生まれ変わり、過去を捨て、何もない心で1年を始めるという心機一転の日だったのです。
 この信仰はクリスマスとして残っていますね。すべての恵みを与えた年老いた太陽のサンタクロスが、翌日には赤ちゃんになって生まれ変わる。しばらくは、幼く弱いので寒い日が続きますという象徴です。


 農耕のためには、日にちを知る必要がありました。何月何日かが分からないと田植えも稲刈りもできなかったからです。春分は田植えの用意を、秋分は稲刈りの用意を教えます。

一乗寺が古代のカレンダーの役割をしていたことが分かります。

 一乗寺にこのような詠が詠まれています。
「朝日さす 夕日かがやく 木のもとに こがね千両 後の世のたから」と。

 これは日本の至るところに残っており、
「朝日さす 夕日かがやく 松の根元に のちの世のため 黄金千両」
「朝日さす 夕日かがやく 木の元に こがね千両 後の世のため黄金千両」


福島県松野観音堂 御詠歌
「朝日射す夕日輝く大山寺松野の里に晴るる薄雲」

盆踊り歌 炭焼き小五郎口説き
「・・・朝日輝く夕日の下に 鶴は千年亀万年と祝い納めて長者の門出・・・」

 といった句です。一乗寺のことを照らし合わせると、意味としては「時節を知ることができることで農耕が栄えて土地が豊になる。」でしょう。 きっと宝のありかを示しているに違いないという人もいましたが違うようです。


 一乗寺のことをみると、同じような施設があったことを示唆しています。

 例えば、一乗寺の真西方向にある南宮大社です。
 本殿は、ほぼ冬至の方向を向いています。南宮大社もまた鉄にまつわる神が宿る神社です。


 世界をみると、このような太陽にまつわる施設は、エジプトのアブ・シンベル神殿があります。世界のどこかで起きた文明は日本にも伝わっていたのです。
 南宮大社の例からも、たまたま一乗寺にも古代の遺構が開発されることなく残ったのでしょう。


古代人たちと日本の開発

 古代人たちはどのようにして土地を測ったのでしょうか。それは星です。空に輝く星座で自分の位置を割り出していたそうです。この方法は今は分からなくなっているそうです。
 しかしながら、ネットで日本の古代からの施設を調べていると面白いことが分かります。
 例えば、出雲大社(北緯35度23分55秒)と富士山(山頂、北緯35度21分38秒)は東西に並んでいます。伊勢神宮(東経136度43分30秒)は白山(山頂、東経136度46分17秒)と南北に並んでいます。そして、その交差点は金華山です。この図では、千葉県の一宮を示していますが、この神社にも太陽信仰が残っています。
 古事記によると、黄泉の国にいたイザナミノミコトから、 白山の神である菊理姫(くくりひめ)に助けられて逃げたイザナキノミコトは伊勢神宮でアマテラスを生みます。白山から伊勢神宮へは長良川を通した流通があったことが知られています。白山から逃げたイザナキノミコトは伊勢神宮でアマテラスを生んだともみえます。
 出雲大社はもともと日本いた土地神が集まった神社で産鉄の元です。伊勢のアマテラスが出雲のスサノオと日本国を取り合い、スサノオはアマテラスに国を譲ります。
 何かの偶然とも言い難い配置です。地図から古代人たちは日本を闇雲に開発したのではないことが分かります。二千年近く前に日本の形と大きさを把握していたのでしょう。
 信長が金華山周辺を岐阜と呼びました。岐阜は、漢字から分かれ目の中心という意味で「文王が岐山より起こり、天下を定めた」故事に由来します。信長のころまでは何かを知っていたのかもしれません。

 このような施設は鉄を伝えた人々によってもたらされました。

産鉄民と一乗寺

 一乗寺とその周辺には産鉄民にまつわる痕跡があります。

 写真は、鉄滓(ノロ)といいます。たたら製鉄によってしか出ない不純物を含んだ鉄です。これは境内で拾ったものですが、ここでもたたら製鉄が行われたことが分かります。


 そして、一乗寺の南で字名が「法白」という場所に、市杵島神社があります。この神社は宗像三姉妹のひとりで産鉄にまつわる神です。
 この神社の南に「金手」と「金手道」という字名がみえます。「金手」とは金属を扱う人々、産鉄民のことです。
 一乗寺の周辺に金属を扱う人々、産鉄民が存在していたことが分かります。


 世界に残る白鳥伝説には、イラン高原付近から白鳥を追いかけて真東に向かった産鉄民の一族がいたそうです。その一族は元の場所に帰ることができるようにその痕跡を残したそうです。
 初期の鉄工は隕鉄を加工しました。その隕鉄が落ちてくる場所と白鳥の飛来する場所が重なっていたので、古代人たちは白鳥が鉄をもたらしていると考えたそうです。
 元の場所を示す箇所は、まっすぐ東西方向に延びているためにレイラインとも呼ばれています。春分、秋分のときになると太陽が昇るときには真東に太陽を望むことがことができ、太陽が沈むときに真西に太陽を望む現象をレイラインと呼びます。(ある日の正午の真南という場合もあります。現在は一乗寺から太陽が昇る姿は見ることができません。)
 一乗寺の地蔵堂をお参りするとちょうど真西の方向にお参りすることなります。南宮大社も真東を向いた施設、真西にお参りできる施設があったのかもしれません。
 出雲大社は南を向いていますが、中にある本殿は真西を向いています。
 一乗寺の地蔵堂と参道は白鳥の飛来地の最南端を指し、東西方向に金属を扱う神仏を祭る寺社が残っています。偶然かもしれませんが興味深いです。

 鎌倉時代ごろは、寺周辺の場所を「小熊」といっていました。「熊」という地名は古代の土地神や信仰地によく付けられています。「小熊」は小さな信仰地という意味でしょう。

 その信仰地とは産鉄民を中心とした人々の信仰地といえます。

 古代人たちが日本を開発する段階で基点を設けていたようです。一乗寺の土地もまた日本を開発する基点として造作していきました。その基点に信仰地を作ったのでしょう。

街道と川湊

 日本の開発の基点である場所に、街道の渡しと川湊が設けてありました。

 そして、街道と川湊がある場所に弘仁10年(819年)弘法大師によって寺が開闢され、地蔵菩薩を安置されました