空海の時代

 江戸時代に書かれた一乗寺の伝承では、弘仁10年(819年)、弘法大師(空海)によって地蔵菩薩を中心に開闢された寺です。

 右の画像の「美濃路見取絵図 第二巻 解説篇 東京美術発行」に、小熊がどのような場所であったかが書かれています。尾張国と美濃国の間にスノマタ川がありました(現在の長良川の一部)。その川の渡しの周辺をスノマタと呼び、その渡しをスノマタノ渡しと呼びました。

小熊に大きな町があり、古代、中世をとおして交通の要所であったことがことが書かれています。


街道のすがた

「鹽尻 七」より
一古しへ濃州より尾州に至る道は、野上、春野、大蟇、赤坂、是より墨俣(スミマタ)川をこえ小熊に出づ、{古濃州道春は、羽栗郡也、今は屬濃州、} 加納{古書蚊野、尾州羽栗郡也、今は濃州、}黑田、一宮、下津、萱津、 今は濃州赤坂より墨俣を經て、結やをに至り、是より萩原稻葉淸須を歴て、名古屋に出て、熱田に行、

武功夜話より
洲俣と云ふ所是節所ニ候也、洲マタ川、尾張川大小数条寄合ふ所、河原数町ニ及ひ候、洲俣之渡、美濃5尾張ニ通ふ鎌倉道ニ候、旅人行通之渡節処、雨来れバ一夜ニして水溢れ、船橋立処ニ流失、為ニ旅人之足を止め居並旅籠軒を連べ候も、永禄申(三)年已来、美濃尾張取合出入はけ敷成来り、此方数年来舟橋相懸候者相無く、旅人難渋之次第、・・・滞留之旅人籠宿ニ止宿、・・・舟にて川渡候、此の渡水深き処ニ流有、何れも渡河難成、渡守永楽銭三文之直ニ候也、

「大乘院記録」より
應仁二年十二月十五日、自二京都一至二鎌倉一宿次第、 大津〈三里〉...赤坂〈三里〉 墨股〈二里五十町〉 黒田〈三町尾張〉 折戸〈三里〉萱津〈三里〉 熱田〈五十町〉...
参考URL

 以上の話から、羽島は戦国時代の終り頃までは尾張国であったこと、小熊付近で長良川は洲マタ川、周辺を洲俣と読んでいたことが分かります。洲俣は通称で正式名称ではなく、墨俣、洲マタ、洲俣と書きようもバラバラであることが散見されます。
 西小熊は、むかし、むかしは尾張国の洲俣之渡と呼ばれていていました。

 小熊小学校付近に、「籠屋」という字名がみえます。「武功夜話」の「...旅人之足を止め居並旅籠軒を連べ候も...」とあり、記述どおりなら街道の位置を示しています。
 さらには、その下に「南海道」という字名が見えます。一乗寺を通る街道は「東海道」と呼ばれていました。正式な「東海道」は桑名を通りますが、戦国時代中頃までは船がよく難破したので、陸路である一乗寺を通過したのです。そして通称「東海道」と呼ばれていました。そのためでしょう、陸路であるのに「海道」という字名になっているのは。

 そして、小熊町の東、足近町には「北宿」と「南宿」の間を街道が通っていたといいます。

 その町の直道には源頼朝が通ったという伝承があります。
 さらには、足近神社に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」が立ち寄り水を飲み伊吹山に向かったという話があります。

 一乗寺の参道を東に延ばすと、以上の場所を通ることが分かります。一乗寺の参道が文献や実際の地名などから街道であったこと。そして、一乗寺に渡しがあったことが分かります。その街道は「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の話から、随分と前から存在していたことが推測されます。


 一乗寺の参道を調べてみますと、幅約6mで台形に土を盛って真直ぐに造成してあります。これは古代律令時代の「官道」という、中央と地方機関を結ぶための経路として整備された道路の規格です。 古代は直線上に道路を造っていたのです。
 両側に2m×2mの土塁が築かれていますが、これは鎌倉時代の道路の規格です。(一番右は官道の発掘現場で一乗寺とは関係がありません)

川湊のすがた

 一乗寺には渡しのためと、伊勢に物資を運ぶ川湊がありました。尾張川(現境川)と長良川が合流し、この付近で川幅が大きくなっていたために物資を運ぶための船が着いていました。

 右は古墳時代の土器です。一乗寺の西にある排水機場の建設の際に出土しました。いくつも出土しましたが、工事を進めるために潰したそうです。祖父が1点だけ譲ってもらったものです。中には弥生時代の土器もあったそうです。
 同じものが「奈良文化財研究所飛鳥資料館」にもありました。その資料館の説明では、「土岐と瀬戸からのものです。弥生時代ごろには既に交易が始まっていた証拠です。どのようなルートでここに来たかは分かりません。」とありました。

 推測されるルートのひとつは一乗寺に集積され、ここより伊勢に向かったことです。そのため、複数の土器が地中から出土したのでしょう。
 戦国時代まで、この付近は荷物を積んだ小舟で混雑したとありますので、古代から中世は賑わっていたのかもしれません。


寺院として

 そのような街道の渡しには、「租庸調」(律令時代の税金)を収めるために行き交う人々もいました。以下は、承和二年(835年)六月廿九日に出された太政官符です。

太政官符 應下造浮橋布施屋并置中渡船上事〈◯中略〉
... 尾張美濃兩國堺墨俣河四艘、〈元二艘今加二艘〉尾張國草津渡三艘、〈元一艘今加二艘〉...
右河等崖岸廣遠不得造橋、仍増件船、 

布施屋○○○二處
右造立美濃尾張兩國堺墨俣河左右邊 以前被從二位行大納言兼皇太子傅藤原朝臣三守宣偁、奉勅、如聞件等河、東海東山兩道之要路也、或渡船少數、或橋梁不備、因玆貢調擔夫等、來集河邊、累日經旬、不得渡達、彼此相爭、常事鬪亂、身命破害、官物流失、宜下下知諸國、預大安寺僧傳燈住位僧忠一依件令修造、講讀師國司相共撿校上、但渡船者以正税買備之、浮橋并布施屋料、以救急稻充之、一作之後、講讀師、國司、以同色稻相續修理、不得令損失、
承和二年六月廿九日〈◯又見類聚國史、袖中抄河海抄、〉

参照URL

 平安時代には「租庸調」を収める人などで、渡しが大変に混雑していました。たびたび喧嘩が起こって荷物が流れ、死傷者が出たとあります。
 満足な旅の手段など無い時代で行倒れになる人も少なくありませんでした。そこで、朝廷から弘法大師が別当(寺院のトップ)を努める大安寺に要請があり忠一という僧が派遣されました。
 渡し賃を取るようになったことが書かれています。船を2艘から4艘に増やして、両岸に布施屋(旅人の救済所)を設けました。そして、国分寺の重役(講讀師)と國司が管理維持を任されたこと。

 一乗寺の伝承記には弘仁10年(819年)に弘法大師(空海)によって開闢されたとあります。弘法大師も私的に布施屋を設けていたので弘仁10年(819年)に一乗寺に造ったのかもしれません。
 以上の流れから、小さな信仰地が弘法大師、国分寺、国司らによって立派な寺院になっていったことが分かります。

文献にみる一乗寺とその周辺

〔吾妻鏡 三十二〕
嘉禎四年{○曆仁元年}正月廿八日乙亥、將軍家{○藤原頼經}御上洛、 二月九日乙酉、矢作宿、入御于足利左馬頭亭、依去夜風雨、洲俣足近兩河浮橋流損云云、 十一日丁亥、今日御逗留于萱津宿、依去夜御不例餘氣也、其後修理兩河浮橋云云、

〔十六夜日記〕
すのまたとかやいふ河には舟をならべて、まさきのつなにやあらん、かけとヾめたるうきはしあり、いとあやうけれどわたる、此川つつみのかたはいとふかくて、かた〳〵は淺ければ、 かたふちの深き心はありながら人目づヽみにさぞせかるらん かりの世のゆききとみるもはかなしや身をうき舟の浮橋にして、とぞおもひつづけヽる、

〔覽富士記〕
すのまた川は興おほかる處のさまなりけり、河のおもていとひろくて、海づらなどのここちし侍り、舟ばしはるかにつづきて、行人征馬ひまもなし、あるは木々のもとたちゆへびて庭のをもむきおぼゆるかたもあり、御舟からめいてかざりうかべたり、又かたはらに鵜飼舟などもみえ侍り、一とせ北山殿に行幸のとき、御池に鵜ぶねをおろされ、かつら人をめして氣色ばかりつかふまつらせられ侍し事さへに、夢のやうに思ひ出され侍る、それよりほかにかけても見及侍らぬわざになむ、 島津とりつかふうきすのまだみねばしらぬ手なはに心ひく也 おもひ出るむかしも遠きわたり哉その面かげのうかぶ小舟に

〔西遊行囊抄 六下〕
洲俣河ハ舟渡也、川ノ廣サ前ノサワタリ川ノ如シ、此水上ハ飛騨山ヨリ流レ出ル、

寺院としての隆盛と源頼朝公

 小さな信仰地で、街道の渡しと川湊があった場所に朝廷の命令で布施屋が設けられ、国分寺、国司らによって管理されるようになりました。
 時は下り、源頼朝公の時代には東大寺や興福寺の荘園地へとなっていました。
 平家は東大寺や興福寺を燃やすなどをしたために平家と寺院は対立、一方で熱田神宮生まれの源頼朝公は東大寺や興福寺と協力しました。そのことが、一乗寺にまつわる絵や歴史文献からみることができます。