一乗寺について

 弘法大師(空海)によって地蔵菩薩を中心に開闢された寺です。
 鉄工と農耕にまつわる信仰地に、尾張国洲又の渡しと川湊(かわみなと)が設けてありました。 そこに弘法大師が布施屋を設け、さらに朝廷の命令によって寺院として整備されました。
 時代は下り、源頼朝の上洛時の行き帰りには休憩所となるなど源氏家の庇護を受けました。
 戦国時代の騒乱には織田信長や豊臣秀吉の陣が置かれました。秀吉没後は荒廃し荒地になりました。
 江戸時代以降は月空和尚の尽力で江西和尚を迎えて臨済宗として再興されました。寺門が橘で、彦根の大老の井伊家が後ろ盾になっていたようです。
 本尊は「南無阿弥陀佛」の阿弥陀如来尊ですが、今も地蔵尊が中心になっています。

以下に一乗寺に残る「伝承記」の現代訳を示します。時代ごとの説明をリンクしました。興味のある方は辿ってみて下さい。

伝承記

 尾張国のスノマタノ渡しのあった場所(>> 古代の一乗寺について)に、弘仁十年(819)弘法大師(空海)の開基で境内18町歩余の広い区域に七堂伽藍を建立せられ、 大師自ら橋杭で延命地蔵菩薩の尊形を彫刻せられ、七間(12.6m)四方の堂に安置し、

朽残る真砂の下の橋はしら 又道かえて人わたすなり

と歌を詠まれた。当時は、寺中に十二坊があり尊信の中心となっていた。

>> 空海の時代

 時を経て源頼朝は、この菩薩の奇瑞を厚く信仰し、文治三年(1187)武運の祈願をした所、 冥利に依って勝利を得た為、本堂を再建したが後に兵火にあい寺院建物が全部消失した。 このことを霊夢で知った源頼朝は、再び伽藍を建築し、手当として千両目の団金に、

朝日さす 夕日かがやく 木のもとに こがね千両 後の世のたから

と一首の和歌を添えて付与したという。

>> 頼朝の時代

 時代は下り、織田信長が岐阜在上の時、この菩薩の霊威のある事を知り、永禄十一年(1568)菩薩を岐阜に移したが、 天正二年(1574)三月の初めのある夜、この菩薩が枕頭に立たれ、元の地に帰りたい旨を告げられた。 帰すことを惜しんだ信長は、尊像を留めてその地を小熊と改め今にその地名を残している。

>> 信長の時代

 その後、一乗寺は一時衰退したが、万治元年(1658)に臨済宗の寺として江西大和尚によって開山された。 当寺に現在安置してある地蔵菩薩は慈覚大師の彫刻で、開山した江西大和尚が尾張国田嶋村から請い受けて空堂に安置したものである。 さらに、貞享二年(1685)冬の頃、当山第三世月空和尚に

汝 我を信じる事久し 其心なんぞ空しからんや、先の尊蔵は彼地に在りといへども 神此処に在す 弥(いよいよ)供養を怠ることなかれ

という霊夢がありました。後老禅師は不二冥合の尊像と崇め、地蔵尊の命日である毎月24日を供養の日とし、諸堂をことごとく再建した。 時に元禄十年(1697)でこの寺の中興の開山と称している。

>> 一乗寺の再興