一乗寺の寺宝

 現在、一乗寺には寺宝と呼べるものはほぼ散逸してありません。 歴史を知りたいので何方か「一乗寺蔵」と書かれたものを見つけたら教えてください。

 これといった寺宝はありませんが、先人の足跡はいろいろと残っています。山門、地蔵堂、一乗寺開山(江西禅師)の墨蹟、門前の地蔵菩薩、観音菩薩、 常夜燈、辻地蔵と道祖神、五輪塔があります。 そのなかでも、寺宝と思われる参道と地蔵堂を上げたいと思います。

参道と地蔵堂

 一乗寺には宝をどこかに埋めたという言い伝えがあります。 一乗寺近辺で源平合戦の一戦が行われたのですが、後に源頼朝がお詫びとお礼に伽藍を寄進したそうですが、そのときに呼んだ句があります。

「朝日さす 夕日かがやく 木のもとに こがね千両 後の世のたから」
「朝日さす 夕日かがやく 松の根元に のちの世のため 黄金千両」
「朝日さす 夕日かがやく 木の元に こがね千両 後の世のため黄金千両」

 といった句です。きっと宝のありかを示しているに違いないと思っていたのですが、どうも違うようです。 「朝日さす 夕日かがやく木のもと」は、地蔵堂のことを示していると考えています。 千両ほどかけて伽藍を建て直したという意味だと思っています。 千両は現在価値で6千万、労働価値では約3億ですが、隠したとは思われません。 寺院の再建に寄付したと考えています。寄付には十分で、隠すには小額だと思うからです。

 地蔵堂は、弘法大師様が創建したときから存在しており、よく調べる必要がありますが、参道と地蔵堂は、創建当時から変わらない位置と向きだそうです。 地蔵堂のある場所から庫裏にかけて、元は自然な山だったそうです。 一乗寺は東を向いているのですが、なかでも地蔵堂から参道は真東を向いています(濃尾震災後に地蔵堂は新築されおり、僅かにずれています)。そのことで、太陽が昇ってくるとあることが分かるのです。
 暦に詳しい方なら分かると思いますが、春分、秋分(お彼岸のころ)が分かるのです。 もし地蔵堂が正確な位置と向きなら、エジプトのアブ・シンベル神殿のように、春分、秋分の日には奥の地蔵様が照らされたのでしょうか。 このことで、春や秋の訪れが分かります。

 カレンダーや時計が無い頃に日にちや時刻を知ることは、大変に重要なことでした。それを知らせることを寺社は担っていました。
 もしカレンダーがない生活を想像してみて下さい。 いつ夏が来るのか、いつ冬になるのかが分からないのです。 それでは、なにを基準に生活すれば分からず、季節にさえ翻弄された生活をしていたと想像できます。
 春分は物事を興す日で農耕の始まりを知らせ、秋分は冬へ季節が向うことを知らせ収穫をし冬支度をします。 春分、秋分は季節の分かれ目を示します。 農耕民族には、とても重要な日だったのです。
 その重要な日を知るためには、真東を示す建築物を作る必要がありました。 例えば、エジプトのスフィンクスが真東を向いて鎮座しています。 スフィンクスの後ろから観て、太陽が鼻先から昇ってきたら、春分、秋分の日です。
 簡単に日付や時間を知ることができる私たちにとっては大した話ではないのですが 、昔の人にとっては真東を知る建築物や方法は重要なことであったことがお分かり頂ける思います。

 暦の話を聞かせて頂いたことがあるのですが、富士山と出雲大社はほぼ東西の線上に並んでいるそうです。 富士山から、日が昇り、出雲大社に沈むような感覚です。その線上に一乗寺があります。 (富士山頂 北緯35度21分、尾張富士山頂 北緯35度20分、一乗寺の地蔵堂 北緯35度21分、朝倉山 南宮大社の元神宮寺 北緯35度21分、鳥取県大山 北緯35度21~23分、出雲大社 北緯35度24分) 地蔵堂から東を向くと富士山が拝め、西を向くと出雲大社を拝む格好になります。 平安時代、西方には極楽浄土があると信じられていました(本尊様は阿弥陀如来)。 偶然にしては面白いと思います。

  一乗寺は平安時代頃に開かれましたが、弘法大師は天才だなと感心させられ、時代のロマンを感じます。
 昔の人は宇宙(天体)の動き、自然の動きに合わせることが、唯一の時を知る方法だったのです。 地蔵様が信仰を集めていたそうですが、時を教えたことによると考えると納得できます。 また、先人たちはいろいろな形で後の人が困らないように知恵を残したそうです。 そして、地蔵堂が先人たちの知恵の結晶であり、残された「たから」だということを知ることができると思うです。

 現在、私たちはカレンダーや時計で日にちや時刻を簡単に知ることができるのですが、無理をしているように感じることが多々あります。 昔の人のように、寒いのが終わり春が来て暖かくなるので嬉しい。暑いのが終わり冬に向かっているのでその準備といった単純さを忘れているように思います。 暦を知ることや先人たちの知恵を知ることは生活を見直すよい機会かもしれません。
 源頼朝が「朝日さす 夕日かがやく 木のもとに こがね千両 後の世のたから」と詠んだそうです。 実際には源頼朝が詠んだか分かりませんが、「吾妻鑑」にわざわざ鎌倉街道の脇街道を使い1190年10月28日に小熊宿とあり、全く関係がないと言えません。 晴れた夕方に地蔵堂内、または参道の入り口から地蔵堂を望むと、地蔵堂が太陽を背にしますので、キラキラと輝きながら太陽が沈むように感じます。 地蔵堂内で観察すると歴史の有名人たちと同じことが感じられるかもしれません。(公には早朝と夕方以降の参拝はお断りしていますが。)
 暦において春分は、一年の始まりの時です。この日を境に変化を望んでよく、 発奮して行動を興すにはよい日だそうです。 皆さん、この日を境に願を掛けて行動を起こしてみてはいかがでしょうか。

 ちなみに、一乗寺の境内を掘っても無駄です。 1,000年もの間に何度も掘り起こされたに違いないからです。

太陽が辿る道

 太陽が辿る道をレイラインと呼ぶらしいです。英語なのでパッとしませんが、太陽、特に春分、秋分に太陽が辿る道だそうです。 ある丘から向こうの丘を望むと、その彼方の丘に聖地がある。そのように聖地が一直線に繋がっているいう話です。
 一乗寺は、海抜0m地帯にあって、その中でも中山という丘のように高い場所に作られています。 確かに東には犬山、成田山や尾張富士があり、西には南宮山、伊吹山があります。(現在、東側は建物で何も見ませんが。) どこも太陽の運行である春分、秋分と弘法大師が関係しています。
 伊吹山は五芒星に数えられ、向かいの犬山の寺社には西向きのものもあるので、風水の関係で東向きに建てられたとも考えられますが、よく分かりません。

 いずれにせよ、古代の人々が宇宙的思想を持ち、自然に畏敬の念を持って生きた息使いを感じます。 難しいことは分かりませんが、その一生懸命の証には興味が尽きません。

地蔵尊と住職

地蔵菩薩と住職にまつわる話に、貞享二年(1685)冬に、3世月空紹長和尚が夢で、

「汝 我を信じる事久し 其心なんぞ空しからんや、先の尊蔵は彼地に在りといへども 神此処に在す 弥(いよいよ)供養を怠ることなかれ」

をみて、その後老禅師は不二冥合の尊像と崇め、諸堂をことごとく再建したとあります。時に元禄十年(1697)でこの寺の中興の開山と称ぜられている。

 信じ難い話でしたが、大東亜戦争供出の鐘銘に

延享二年(1745)仲春 葉栗郡西小熊邑小熊山一乗寺治工岐陽住和泉守岡本太郎右衛門慰藤原貞次住昔地蔵菩薩陲座現霊場而今濃邦之名藍也 5世観曇桂知

とあります。5世曇桂和尚は月空和尚の弟子にあたるので、本当の話のようです。また、濃国之名とありますので、地蔵尊が農耕と関係しているとみることができます。

似た歌

「朝日さす 夕日かがやく 木のもとに こがね千両 後の世のたから」

 この歌に似た歌があります。それは古事記にあって、

「この地は韓国に向かい、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故、此処は甚吉き地..」

 とあります。

地蔵堂

 現在の地蔵堂は、濃尾震災後に新築したもので、 以前の地蔵堂は、私が小学生ぐらいまで農機具小屋として使っていたものだそうです。 その農機具小屋は中2階建てで、2階の奥に仏間らしきものがありました。現在の姿とは違うのかもしれません。
 もと地蔵堂は農機具小屋でしたので、自転車などを置いていました。 ある日、その自転車のペダルが微かに動いたので、「重力の発見!」と思い見ていたら、そのまま勢いよく回り続けました。 重力ってすごいとも思いましたが、今から考えると地蔵堂や一乗寺に何か関係があるのかもしれません。

龍脈

 東洋では、レイラインのことを龍脈と関連付けることがあるそうです。 風水では、龍脈は直線を意味しないことが多いので同じとは考えられませんが。
 龍は実在しませんが、昔から見たことがある人が何人もいます。 私も見たことがあるのですが、山間から平地を眺めたときに龍そっくりな雲が極まれに見られるという自然現象だそうです。
 私が見たのは「さざれ石公園」という岐阜県揖斐郡の山の奥でしたが、 そのころはさざれ石公園の砂防ダムは工事中で結構な高さまで山を登れました。 そこを登っていて後ろを振り返ったら、頭上に覆い被さるように雲の龍がいました。 覆い被さるといっても、その大きさは、鼻先だけで山ひとつ以上あり、顔だけで山が3つより遥かに大きいものでした。 はっきりと髭も角もあり、体は四日市の方から根尾の山奥の方に掛けて体をくねらせながら名古屋の方まで続いていました。
 より空気が綺麗になるといいなあと思う今日この頃です。