概縁起

 岐阜県羽島市にある、弘仁10年(819年)弘法大師 空海様(以下敬称略)の発願によって建立された寺。 戦国時代の騒乱から後は臨済宗です。

 一乗寺の歴史は古いのですが、残された資料がほぼありません。 歴史については伝承の話が多いため、伝承と実際の話を照らし合わせながら書いています。 ますは伝承を記載し、追記には検証を書いています。

伝承

 弘仁十年(819)弘法大師(空海)の開基で真言宗の寺院として境内18町歩余の広い区域に七堂伽藍を建立せられ、 大師自ら橋杭で延命地蔵菩薩の尊形を彫刻せられ、七間(12.6m)四方の堂に安置し、

朽残る真砂の下の橋はしら 又道かえて人わたすなり

と歌を詠まれた。当時は、寺中に十二坊があり尊信の中心となっていた。

 時を経て源頼朝は、この菩薩の奇瑞を厚く信仰し、文治三年(1187)武運の祈願をした所、 冥利に依って勝利を得た為、本堂を再建したが後に兵火にあい寺院建物が全部消失した。 このことを霊夢で知った源頼朝は、再び伽藍を建築し、手当として千両目の団金に、

朝日さす 夕日かがやく 木のもとに こがね千両 後の世のたから

と一首の和歌を添えて付与したという。

 時代は下り、織田信長が岐阜在上の時、この菩薩の霊威のある事を知り、永禄十一年(1568)菩薩を岐阜に移したが、 天正二年(1574)三月の初めのある夜、この菩薩が枕頭に立たれ、元の地に帰りたい旨を告げられた。 帰すことを惜しんだ信長は、尊像を留めてその地を小熊と改め今にその地名を残している。

 その後、一乗寺は一時衰退したが、万治元年(1658)に臨済宗の寺として江西大和尚によって開山された。 当寺に現在安置してある地蔵菩薩は慈覚大師の彫刻で、開山した江西大和尚が尾張国田嶋村から請い受けて空堂に安置したものである。 さらに、貞享二年(1685)冬の頃、当山第三世月空和尚に

汝 我を信じる事久し 其心なんぞ空しからんや、先の尊蔵は彼地に在りといへども 神此処に在す 弥(いよいよ)供養を怠ることなかれ

という霊夢があった。その後老禅師は不二冥合の尊像と崇め、諸堂をことごとく再建した。 時に元禄十年(1697)でこの寺の中興の開山と称している。

 また、治承・寿永の乱(源平合戦)の墨俣川の合戦、養和元年(1181)は墨俣と西小熊(一乗寺付近)が主戦場となり多くの戦死者がでた。 この戦死者の弔いのために誓浄寺(せいじょうじ)と本養寺(ほんようじ)が建立され、多くの五輪墓石が造られたが、天正14年(1586)の大洪水で寺とともに流されて散逸してしまった。 昭和初期からの長良川、境川河川の改修によって、多くの五輪墓石が出土しその一部が寺に無縁墓石として安置され、墨俣川戦いの激しさを今に伝えている。

追記

 小熊の地に、熱田の宮(名古屋市の熱田神宮)から美濃国府(岐阜の不破郡垂井町)へ通じる伝路という規格の街道が通っており、 また源平合戦、承久の乱、信長の岐阜攻略、関ヶ原合戦と、経済的にも戦略的にも恵まれた場所だったようです。
 戦国時代までには大きなお寺になっていたらしいのですが廃寺となり、臨済宗として再興されました。 東海には戦国時代の動乱にまつわるお寺が多いのですが、一乗寺も動乱に翻弄されたようです。

 開基については弘仁年間ごろで、開基時は真言宗であったと思われますが、実際には分かりません。 調べてみると、一乗寺の土地は古くから街道が通り、霊場(聖地)であったようです。そこに人が集まり、寺を形成していったようです。 平安時代ごろは一寺一宗ではなく、不特定多数の宗派の僧侶が1つの寺(山)に集まり、複数の寺院を創っていたようです。
 大東亜戦争供出の鐘銘に

延享二年(1745)仲春 葉栗郡西小熊邑小熊山一乗寺治工岐陽住和泉守岡本太郎右衛門慰藤原貞次住昔地蔵菩薩陲座現霊場而今濃邦之名藍也 5世観曇桂知

とあり、地蔵菩薩は坐像であり、すでに霊場であったことをほのめかしています。 先の地蔵尊は織田信長によって岐阜市の小熊に移動されました。その地蔵尊は坐像です。

地蔵菩薩を持って避難する僧侶 地蔵菩薩を持って避難する僧侶

 天保13年(1842年)~安政4年(1857年)の当寺の住職、黙頑和尚が小熊山一乗禅寺権輿(けんよ)記に弘法大師開闢(=開山)、 創建から数百年間堂宇が全備していたと記しています。 そして、本尊が阿弥陀如来という平安期の信仰を反映した仏様、 一乗という言葉は平安期ごろの一時期に出現する言葉で、「最初に」や「一番」という意味だそうですので、 弘法大師の発願によるものか、実際に開基したもの、もしくは開基となったものと思われます。
 最近、別のお寺で修復された観音像の体内から、空海作で一乗寺蔵とありました。

 一乗寺のある場所は、古くから道があったようで、平安時代ごろに東山道(中山道)と東海道をつなぐ官道が整備されました。この官道は、不破の関から熱田神宮を結ぶもので、一乗寺の裏に墨俣の渡しがすぐ裏手にあります。
 官道は租庸調のために、奈良時代ごろから整備されたものですが、主要道である「駅路」ではなく、脇街道とありますし駅(馬を留め置く場所)がなかったという話がありますので「伝路」と思われます。
 「伝路」はもともとあった道を利用した場合が多いらしいのですが、一乗寺を通る道は多くの人々の往来があったようで、承和二(835)年の太政官符にあるように渡し舟を増やし、布施屋を整備しています。 布施屋は行き倒れを助け、荷物を流通させるために多くは寺院が管理していました。 さらに伝承に墨俣の渡しの両岸の寺院に朽ちた橋はしらを地蔵菩薩に彫り変えて安置したとあります。

 そして、一乗寺には五輪塔が多くあります。五輪塔は誰かを弔ったことはもちろんですが、街道が通っていた可能性を示すものです。 もともと山内にあったものもありますが、昭和50年ごろの境川改修のおりに一乗寺の裏手から十数基ほど出土しています。 さらに道標や道祖神があり、道や街道があったことを示す複数の仏像があります。
墨俣の戦いがあった頃には、町屋が描かれていますので、伝路の規格と照らし合わせると参道が街道であったようです。 一乗寺と町屋

 墨俣の渡しは、都の東の要で、軍事的にも重要な場所だったようで、争いが起こると兵が敷かれました。五輪塔は年代がバラバラで、幾多の戦いがあったことを物語ります。 一乗寺のある中山は周辺より一段高い位置にあり、長良川から来ると地蔵谷(地獄谷と呼ぶ人がいますが正しくは地蔵谷)という谷がありました。

 1181年に源頼朝が平家と戦うことを決意する墨俣川の合戦がありました。源頼朝を討伐するために平氏が東国へ向かうのを、 源行家、義円らが一乗寺に陣を敷いて迎え撃った戦いです。義円が戦いの準備をしている最中に平氏に強襲され、平氏の圧勝でした。義円は小熊で命を落としたようです。 墨俣の戦い
 1187年は、義経追討をしていたころで、頼朝は墨俣川に追討軍を派遣し鎌倉から出ていません。 1190年に源頼朝が上洛の際に小熊に留まったことが「吾妻鑑」に出ていますので、 1187年ごろから一乗寺の伽藍を修復し上洛までには完成。そして、立ち寄って地蔵尊に武運を祈願し千両を寄付したともみえます? 参道の脇に、石垣が築かれているのですが、両脇から見ると2mあります。2mとは鎌倉街道にあるように、馬に乗った武士を隠す高さです。わざわざ、土を盛り上げて造ってありますので、このころに権威付けと共に造られたと思います。 頼朝起つ
 1190年の上洛は、随分とのんびりとしたものらしく通常16日の行程を40日以上かけたようで、源頼朝本人が和歌などを読みながら都に向かったそうです。 「朝日さす 夕日かがやく 木のもとに こがね千両 後の世のたから」の和歌は源頼朝本人のものである可能性が高いです。「朝日さす 夕日かがやく」というところは、日本創世記の話である古事記に似たような歌があります。そして、 こがね千両とありますが、太陽が真東から昇り、真西に沈む現象を値千両という話があります。源頼朝以前より、地蔵堂から参道が真東を向けて造られており、その北緯が富士山と同じであることを知っていたことを物語りますし、既に地蔵堂と参道が存在していたことが分かります。

レイライン


 また、源頼朝の母は熱田神宮の大宮司の娘で名古屋生まれとも言われています。そして、1158年ごろは都(京都)で官職を歴任していますので、小熊を通る街道と無縁とは言えません。 不破と熱田を繋ぐ街道は古代より将軍たちが上洛の際には通る安全な道でした。

鎌倉街道

 戦国時代ごろの多くの寺は防備のために整備されており、軍隊をおくには格好の場所でもありました。 小熊山一乗禅寺権輿記に、このころに幾度も兵火に合い、地蔵堂を残して、すべて荒地になったと記しています。織田信長が美濃攻めをしていた頃に、日置、墨俣、竹鼻は美濃で、小熊が尾張というかたちで美濃に囲まれていました。そして、交通の要所でもあったので、是が非でも奪られたくない土地であったと思われますし、加納や、墨俣、森部への進出には格好の場所ですので、争いも絶えなかったと思われます。織田信長や木下藤吉郎が参道を幾度も通ったと思われますが、何を考えながら通ったのかと思いを馳せます。
 幾度とない兵火に残った地蔵尊は、永禄11年(1568)に織田信長が岐阜城の麓に持っていき、その場所を小熊と改めました。太平洋戦争の岐阜空襲でも、その地蔵尊の付近は焼けなかったために今も信仰があるそうです。

 江戸時代になり、地元の人々の労により万治元年(1658)に江西禅師を迎えて、臨済宗のお寺として再興されました。 鎌倉街道はそのころには美濃路街道として、一乗寺より北に整備されていました。 この街道は、徳川家康が関が原の合戦後に通って帰途についたために「御吉例街道」や「御悦び街道」と呼ばれ、将軍の上洛、大名行列、朝鮮通信使などの往来に使われ、周辺は随分とハイカラだったようです。
 この時代に観音信仰が流行しました。一乗寺にも観音様が安置されていたようですが、どこかに持って行ったそうです。よほどご利益があったのでしょう。
 明治に入り、これからは高等教育が社会のためになると確信したそのころの住職 廣澤唐頴和尚が多くの子供を熱心に教育をしたそうです。 小僧に高額な費用を掛けて大学まで行かせました。その子供の中には、一乗寺の住職となり国会議員(後藤亮一、雲外和尚)になった者もいました。 明治以降の仏教が疎まれた風潮を改善しようと兄弟で随分奔走したそうです。
 川の氾濫や災害と住職が替わるたびに寺宝は失われ、今は特徴が無くなりました。

 現在一乗寺には、東西一直線の参道と地蔵堂、多数の五輪塔、天明の大飢饉のころに建てられた地蔵尊、濃尾大震災でも倒れなかった門があります。
 参道と地蔵堂は人々の知恵と希望を感じます。 五輪塔は水輪の上に水輪が重ねてあり、道を示す仏や道標も数多くあり、街道を通る人々のざわめきが聞こえるかのようです。 門前の地蔵尊は、天明の大飢饉のときに建立されており、足元に一文銭が挿んであります。人々の苦しみと叫びを感じます。 濃尾震災で倒れなかった門は瓦に天保と銘があり、同じように倒れませんようにと拝みます。

鎌倉街道と小熊宿

 墨俣渡を通る鎌倉街道は、将軍家の上洛(京都へ行くこと)にも使われていました。
 源頼朝は、源平合戦が終わり、義経追討の後の建久元年(1190)に上洛をしています。

文治六年〈建久元年〉十月廿八日己酉 小熊宿、..
吾妻鑑より

 江戸時代より前は、軍隊や公家は寺院に宿泊しました。 義経の有名な腰越状は腰越の宿から送ったといいます。実際の宿泊先は、真言宗満福寺であることから、 源頼朝が上洛の際も寺院に宿泊していたと考えられます。 小熊で古くから存在していた寺院は一乗寺だけで、18町歩の敷地を有していましたので千人の兵が十分に入れ、宿泊した可能性があります(創建の伝承が正しければ)。

 さらに、摂家将軍頼経が上洛するときの嘉禎4年(1238)2月12日に、

2月12日 戊子 霽
  小隈御宿。
吾妻鑑より

とあり、細かい場所は記載されていませんが小熊に宿泊したという記録があります。

墨俣の渡し

 墨俣(州俣、墨股、州股、須俣)の渡しは、
 承和二(835)年に

尾張美濃兩國堺墨俣河四艘、〈元二艘今加二二艘一〉..<省略>..一布施屋(○○○)二處 右造二立美濃尾張兩國堺墨俣河左右邊一..

 官費で墨俣の渡しに舟を2艘増やし、布施屋(休憩、宿泊所)を設けたとあり、これより以前に存在していたことが分かります。

 場所は、木曽川と長良川の二大河が合流しそこから下流を墨俣河といっていますので、 江戸時代以前は羽島市小熊町西小熊と大垣市墨俣町下宿あたりで、美濃路よりずっと南にありました。 さらに、過去の地図の長良川に出るだけの道を辿ると「長良崎」という地名があり、下宿寄りであったことが分かります。 上宿は大正4年以降の地名(旧西橋村)、不破神社は明治6年以前は隼人大明神(はやとだいみょうじん)で、下宿の「下」とは「「もと(本)」とも読めますので、 もと宿とも読めます。
 また五輪塔が一乗寺の裏手から大量に出土していることから、その付近に道があった可能性があります。
 そして、最近まで付近や境内を散歩すると出土した明銭を見つけることがありました。交易の証だと思います。

 このことから鎌倉街道は、一乗寺の脇を通り (もしかすると山内かもしれません。 参道の幅は約5m、塁を入れると伝路の規格である6mあります。 また、参道の脇に約2mの塁があり、鎌倉街道の進軍が分からないために設けられた目隠しの塁と高さが同じです。 下宿の堤防に出る道と小熊側の土地境から分かる道は直線で繋ぐことができ、さらに参道に繋げることができるからです。 さらに、五輪塔群は参道と墨俣の渡しの想定線上の付近から多く出土しています。)、裏手に墨俣の渡しがあり、戦国時代までは、ここを境に争っていたことが分かります。

一乗寺がみられる記録

蓬州旧勝録
蛙面坊茶町(鈴木作助)によって安永8年(1779)に記された書物。
2町5反5畝の内5畝歩は除地、残りは年貢地地蔵別当、地蔵堂9尺に2間と記されている。

濃州徇行記
樋口好古によって寛政元年(1789)ごろに記された書物。
2反4畝19歩村除、1町1反3畝1歩は年貢地と記されている。

美濃88ヶ所大師巡拝記の八番として
「ひとのりに かしこの岸に 至るらんを くまのたけて 心にもむち」
とある。

大東亜戦争供出の鐘銘に
延享二年(1745)仲春 葉栗郡西小熊邑小熊山一乗寺治工岐陽住和泉守岡本太郎右衛門慰藤原貞次住昔地蔵菩薩陲座現霊場而今濃邦之名藍也 5世観曇桂知
とある。

壬申の乱 672年

 宇治拾遺物語に、大海人皇子が逃れて鈴鹿方面から美濃に入って、州俣のわたしに舟もなくたっておられたとある。